ごあいさつ

佐藤等

本学会共同代表

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私たちは、「断絶の時代」という転換期を経て、再び「継続の時代」の入口に立っています。『断絶の時代』(1969)は、「継続の終わり」という章で始まります。ドラッカーなら今を「断絶の終わり」もしくは「継続の始まり」と表現するでしょう。

われわれが転換期にあることは明らかである。もしこれまでの歴史どおり動くならば、二〇一〇年ないし二〇二〇年まで続く―『ポスト資本主義社会』(1993)

コロナ禍やウクライナ紛争などによって20世紀に由来するいくつかの古い世界観は一掃され、新しい姿を見せつつあります。新たな「継続の時代」の入り口にあって私たちが寄って立つべき新しい世界観や価値観は何でしょうか。

ドラッカー学会のジャーナルが『文明とマネジメント』を標榜している意味もまさにそこにあります。これから人類が築き上げようとしている文明の下、社会をより良く機能させるためにマネジメントをどのように進化・深化させていくべきかを発信していくことは、学会の役割であり課題であると考えています。

ドラッカーは、文明とともに文化というコンセプトを用います。

マネジメントが、それぞれの国に特有の文化を活かすことに成功しなければ、世界の発展は望みえない。これこそわれわれが日本から学ぶべきことである―『マネジメント』(1973)

もう一つの課題は、「それぞれの国に特有の文化」をマネジメントに活かすという視座を認識することです。長らく閉塞感の中にある日本を脱する大きなきっかけになる可能性を秘めています。

とりわけドラッカーは、日本の文化、世界観、美意識を高く評価し、世界に発信しています。日本の強みをマネジメントに活かすための知見を発信することも学会に期待されていることではないでしょうか。

「マネジメントとは、課題によって規定される客観的な機能である」といいます。課題を共有し、社会に有益な情報を提供する活動とは何かを問い続け、会務を担っていく所存です。

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井坂康志 

本学会共同代表

ものつくり大学教養教育センター教授

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このたび共同代表という重責を仰せつかりました井坂康志と申します。

私とドラッカーとの内的対話は20数年になります。「研究してきた」といえると格好がよいのですが、本当のところはたぶんそうではありません。

はっきり言えるのは、私はドラッカーの中に温かな励ましを感じ続けてきたことです。それが長期間にわたって、私が彼から離れられなかった最大の理由のように感じています。そして、おそらく、ドラッカー学会の会員の皆様、あるいは世界中でドラッカーに対して共感を寄せる多くの方々の気持ちも、程度の差はあれ、私の感じるところに近いのではないかと想像いたします。

私自身、人生のそれぞれの局面でふさわしい助力の手を差し伸べてもらっているような感覚を幾度となく抱いてきました。苦しい時、孤立無援に感じる時、未来が見えない時、ドラッカーの言葉にどれほど救われたことでしょうか。今にして、初代代表である上田惇生さんが、「それぞれのドラッカー」と言われていた真意が、少しだけわかってきた気がいたします。

激変のカタログのような現代、いっそうドラッカーの力が必要とされています。

ドラッカー自身の思いを受け、その名を冠した学会。小なりといえども、大きな意味をもっています。温かな励ましの知的共同体として、様々な方が手をつなぎ合える、そんな場にしていきたい。心通わぬところに、真の知的交流などあるはずがないからです。

そんなドラッカー学会は皆さんの力を必要としています。

よろしくご指導いただければ幸いです。

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阪井和男

本学会フェロー

明治大学法学部教授

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偉大な社会生態学者から学ぶこと

ドラッカーというとマネジメントが著名ですが、彼は自身を社会生態学者と呼んでいました。社会生態学者とは、自然生態を観察するように、人間社会を全体からありのままに観察し、その結果を伝える人のことです。彼が観察から見出したコンセプトは知識社会や知識労働、ネクスト・ソサエティ、セカンドキャリアなど多くありますが、いずれもが私たちが生きる現代においても刺激的であるとともに、重要な学びの補助線を提供してくれるものばかりです。ドラッカー学会は、万人に開かれた学びと実践の共同体でありたいと願っています。ご一緒できることを楽しみにしております。
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三浦一郎

本学会学術フェロー

立命館大学名誉教授

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偉大な思想の灯火を消さない

ドラッカーをアカデミックに評価するのは至難である。だからこそ、研究し続けなければならない。かつて西田幾太郎、田辺元といった大物哲学者に並び、和辻哲郎という異色の倫理学者がいた。和辻は『風土』や『古寺巡礼』などの随想風の作風で知られる。彼は学者というよりも、物書きだった。物事の本質を直観し、かつアナロジカルにとらえる異能の持ち主だった。確かに和辻はアカデミアの人間ではなかったかもしれない。だが、彼の高度の直観と認識作法は明らかに偉大なる研究者のそれだった。それをきちんと評価し、研究し続けることが大切である。

ドラッカーもまた日本風に言えば、「見立て」の天才だった。見立てとは論理よりも直観の作業である。見立ては古寺の庭園や古典芸能、和歌や俳句に多用される日本の風土に根ざす能力である。だが、そのようなあまりに巨大なパターン認識は読み物としてはおもしろくとも、「学問ではない」というのがこれまでの評価だった。それは彼自身が反アカデミックな知的作法を特徴としていたためである。本来、反アカデミックのドラッカーをアカデミックに評価する——。実は今後の学会活動の決め手はここにあるのではないかと思っている。大事なのは偉大な思想の灯火を消さないことである。

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上田惇生

本学会創設者

ものつくり大学名誉教授

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文明と未来を創造するために

ドラッカーの主張のフレームワークは絵解きを必要とする。解釈を必要とする。その点を明らかにしていくことが、今後の世界の構築に大きく寄与する。本学会はドラッカーのフレームを探求しつつ、未来を創造しようとするものである。

マネジメントは未完の可能性を秘めた知識である。彼の観察によれば、社会において、生産力とイズムが一緒になると必ず悪い方向に行く。いかに善良な動機に貫かれようとも、イズムには人間社会を救済する力はない。現実に、社会主義、全体主義、そして資本主義さえもすべてうまくいかなかった。それは現実そのものを現実的に説明する力が、イデオロギーという合理主義の産物には絶望的に欠落していたからだ。

ドラッカーがマネジメントというイズムにもイデオロギーにもよることのないきわめて現実的な社会上の特質に着目したのは、当然といえば当然だった。マネジメントとは文明を創造する手段であって、機能である。手段の卓越はその成果によって測られる。その原点を明らかにするには、深いレベルで企まれた彼の思考フレームを究明する必要がある。そこに本学会の使命がある。

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